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  『ある失明者の失敗』


 私は、色と光のある世界を失った。
 つまり、失明したのだ。誰かが私に話かける声は聞こえるし、何かが私に触れる感触も分かるのに、目の前に広がるのは何も見えない真っ黒な暗闇ばかり。こんな退屈な世界を私に与えた奴は、居眠り運転をしながらアクセルを踏んでいた大馬鹿野郎だ。勢い良く車に突っ込まれた衝撃で私のかけていた眼鏡は割れ、その多量の破片が目に刺さり、医者に回復不能と言われるほど両目を損傷したのだった。目は大事に至っているというのに、その他体の方はそこまで打ちどころが悪くなかったのか軽傷で済んでいる。こんなことになるなら、早いところコンタクトレンズにかえておくべきだった。
 と、私はベッドの上で仰向けになりながら――恐らく私はベッドの上で、多分仰向けになっているはず――、若干の後悔をしていた。
 今、私は病室の天井を見ているはずなのだが、何も見えない。暇を潰すために天井の黒い染みを探すどころか、その黒い染みが視界一杯に広がっているのだ。そもそも、自分が両目を開けているのかさえよく分からない。
 失明してから結構な日数が経っているものの、私は正直失明したという事がいまだに信じられないのだ。あの事故に遭うまでは、抜けるような空の青色や高い建物の混み合った通りの風景、笑顔の可愛い友達の顔なんかがはっきりと見えていたのに、今や自分の両手すら見えないのだから。これから先、退院して自宅へ帰ったとしても、何も見えない世界で身を小さくして生きていくしかないのだろうか。
 そんなの想像するだけで退屈だし、なんだか空恐ろしい気持ちになってくる。なんとかできないものか。
 目を移植――それは不可能だ。眼球そのものが損傷しているため、移植するとなると眼球すべてを移植する必要がある。無理だとは知っているものの、以前に僅かな望みを抱いて医者に聞いてみたが、やはり「現代の医学では難しい」という答えが返ってきたのだった。
 盲導犬――それも駄目だ。確かに生活の助けにはなるだろうが、結局目は見えないままだ。私は盲目のままで生活する方法ではなく、盲目を治す方法が知りたいのだ。
 それが無理なら、もう……。そうだ、自殺しよう。こんな暗い世界で生き続けるくらいなら、死んであの世の景色でも拝むほうがずっとましだ。
 早速病院の屋上に行こうと思い、私は上半身を起こした。
 と、そこで私は気づいてしまったのだ。はたして、今この目の見えない状態で屋上までたどり着けるだろうか、と。
 この病院の内装なんて把握していないから、屋上まで道のりの中で私は何度も転んだり壁にぶつかったりするだろうし、それを繰り返していればいつかは死ねるだろうが、そこまで痛く苦しい思いをしてまで死にたくはない。できれば、痛いのは死ぬ一瞬だけがいいのだ。それに病院の人間がそういった私の奇行を黙って見過ごすはずがない。
 百歩譲り、痛いのを我慢するとして、飛び降り自殺の代わりに自分の胸を刺して死のうにもそのための刃物を探す目がない。折角苦しいのを我慢する決意をしても、自分の首を括るための縄を準備する目もない。
 自殺なのに、自分でやることもできないのだ。仕方ない。
「すいません。誰かいませんか?」
「はい、なんですか?」
 そう声を上げた直後、私のすぐ隣から聞き覚えのある看護婦の声が返ってきた。
「屋上に行きたいんですが、ちょっと手伝ってくれませんか?」
 私は頼んでみた。もちろん、屋上から飛び降り自殺をするためだ。が、その看護婦は「いいですよ」と返事をするかわりに、喉の奥から出すような薄い笑い声を出した。
「あなたの考えている事はよく分かりますよ。どうせ、屋上から飛び降りて、死のうとでも考えているのでしょ? 失明した患者さんって、自殺を考える人が結構多いから、なんだか分かっちゃうのよ」
 さすが数多の患者を見てきたであろう看護婦だ。いとも簡単に私の意図をぴったり当ててみせた。そして、私が相当な馬鹿であることも証明してくれた。今の看護婦の言葉に対して、私はすぐに「いや、ちょっと外の風でも吸いたいなあ、と思って……」とかなんとか言えばいいのに、こうして黙ってしまったら看護婦の言ったことを肯定するも同じじゃないか。私にはもっと勘の鈍い看護婦をつけて欲しかったものだ。
「じゃあ、自殺はやめにします」
 そう冷たく言って、私は後ろへと上半身を慎重に倒し、再び仰向けになった。私にだって少しくらい張りたい意地はあるのだから、開き直ってやりたくもなる。
 さて、これからどう生活していこうか。そう考え始めるも、ものの数秒で面倒臭くなり、思考を放棄して寝ようと思った時、私の視界はすでに真っ暗である事に気づいた。寝るために目を閉じ周囲の光を遮断するという行動が取れないのは、なんとも落ち着かず、失明して以来少しも慣れそうにない事の一つであった。
 次目が覚めたら――いや、ふと意識が戻ったら、今度こそ自殺してやろう。そう、私は心に決めたのだった。

                             了

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